山口工材(株)創立50周年記念誌

創立45周年記念式典 不安でしかなかった営業回り、 古松相談役の一言で救われた 東京の大学を卒業後、建設業をしていた実家へ戻るつも りでしたが、経営が傾き倒産してしまい知り合いを頼って福 井県へ就職しました。幹部候補生となり頑張ってはいました が、やはり地元へ戻りたい気持ちが強くなり実姉を頼り帰郷 しました。その当時、姉が山口工材の経理を担当しており、 専務(現在の相談役のこと、以後同)に紹介してもらい就 職。私は24歳、専務は36歳の時でした。入社後、最低1年は 現場で勉強するはずが1ヶ月後、営業への異動を命じられま した。予備知識が全くない状態でどこへ行っていいか、何を していいかも分からず、現場に戻してほしいと専務に頼みま したが「心配しなくていいから好きなようにやってみろ」と言 われてさらに悩みました。ですが、自分にとってはその言葉は 背中を押してくれた言葉でもありました。腹をくくりそれからは 迷惑をかけたくない一心で、早く仕事を覚えようと昼夜問わ ず必死でした。 乗り越えた、2度の危機的状況 当初の山口工材はスレート屋根専門だったので営業先は 鉄工所がメイン。バブル期に入る数年前、取引のあった鉄工 所が倒産しその影響を受け、危機的状況に陥りました。従業 員や職人も去り、専務と2人になってしまいましたが「これから はスレートだけではダメだ、営業先の幅を広げる」と、いかな る時も専務はとにかくポジティブで、反対に私は石橋を何回も 叩くタイプ。この両極端な性格が、ある意味良かったと今は思 います。 創業時は発起人の一人で熊本スレートの社長が山口工 材と兼務されていました。専務に社長交代の打診があったよ うですがお断りに。私は専務に言いました「事業を倒産したと いう財産を持っているから言う、今のやり方では会社は成長 しない」と専務や先輩にぶつけました。先輩からの反対意見は 厳しかったですが、賛同してくれたのは専務でした。それから 2人して死にものぐるいで仕事をし、専務は社長へ就任されま した。 バブル期は、建設業界は営業しなくても入ってくる時代。バ ブルがはじけた時も大した影響はなく順調に売り上げも伸び ていましたが、リーマンショック時期、元請けの大打撃により 下請けの我が社にも影響の波は押し寄せました。従業員は 増えていたのに、生産が上がらない状況が続き、2回目の山 口工材危機的状況に。そんな矢先、社長の奥様が突然倒 れ、1週間後お亡くなりになりました。辛い時期だったと思いま すが社長の「若い従業員に会社を残してやらんといけん」と いう話を聞き、社長が辞めるのではと危惧していた私は、もう 一度この人のために何とか力になりたいと思いました。社長 の不屈の精神には尊敬の念を抱かざるを得ません。それから 会社も持ち直し、今に至っています。 分からないことは迷わず聞く 若い人たちに伝えたいと思うことは、「聞くは一時の恥、聞 かぬは一生の恥」、分からないことはどんな些細なことでもど んどん聞いてほしい。経験値 から様々なことを教えてあげ られる、そうして知識を深め ていってほしいと思います。 これから山口工材がまだま だ盛り上がっていくために、 次の世代を育てる手助けが できればと思っています。 専務取締役 柳井 忠喜 昭和57年(1982年)入社 50年を振り返る 危機的状況を何度も乗り越えた 古松相談役の人間力 専務が語る YAMAGUCHI KOUZAI 24

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